2014年11月2日説教要旨「救いの契約」創世記9:1-17

神様の裁きの中に救いがあり、救いの中に裁きがある。ノアの洪水の物語は洪水による裁きがあり、家族、動物達が救われるという出来事である。これにより私達の救いは成就した。ノアの物語は、神様が告げられた契約である。この契約は全人類と全被造物と神様が立てられた契約なのである。信じようと信じまいと、一方的な恵みの宣言なのである。ここに、神様の自由、神様の大きさがある。神様はこの契約の「しるし」として、虹を置かれた。虹を見て、神様がノアの契約を思い起こすように、聖餐により私達はキリストの十字架と復活、救いの契約を思い起こす。希望を持って歩みたい。


2014年10月5日説教要旨

第一日曜日は聖餐式がある。だから礼拝出席も多い。良い伝統である。この聖餐に、信仰を支え続ける力がある。宗教改革者カルヴァンは、「この聖餐は、弱い私達の為に主イエスが制定して下さった。」と言う。その私達の弱さを主イエスはよくご存知であったが故に、その私達の信仰の歩みを励まし、支え、導く為に、主イエスは聖餐を制定して下さったと言うのである。その通りである。そのような私達の為に、目と心と耳とを、天の父なる神様と、主イエスとに向かわせ続ける為に、主イエスは聖餐を制定して下さった。二千年の教会の歴史は、その出発の時から、この聖餐に与り続ける歴史だったのである。出エジプト、過ぎ越しの出来事は、実に主イエス・キリストによる救いの出来事の預言、主イエス・キリストによる救いの出来事の原型だった。あの過ぎ越しの出来事によってイスラエルが誕生したように、主イエス・キリストの十字架の出来事によって、新しい神の民、キリストの教会は誕生した。そして、聖餐は、過去だけではなくて、主イエスの現在と主イエスの未来を、現在の主イエスと私達の交わりと将来の私達と主イエスとの交わりをも私達に指し示しているのである。  私達は、聖餐に与るたびに、主イエス・キリストの体と血とに与る。私達は、この聖餐に与るたびに、キリストの命そのものに与る。キリストの命が私達の中に入り、私達と一つになる。しかし、キリストの命と一つにされた私達の命がおとろえ、滅びることはない。そして、キリストの体である教会を形作っている者とは、キリストの体である聖餐に与る者であるということなのである。私達の教会では伝統的に、洗礼を受けられている方が、この聖餐に与ることにされている。それは、主イエスご自身が言われたように、聖餐は「契約の血」であるからである。私達の教会は伝統的にその様な信仰理解に基づいて聖餐式を行っている。同じ信仰共同体の仲間として、一人でも多くの方々と歩んで参りたいと願うものである。


2014年9月7日説教要旨マルコ12:1-12「主の言葉は全ての人に与えられる」

教会は全ての人の為にある。主の御言葉は全ての人に与えられるのである。ユダヤ人たちがパウロの話すことに反対した。どうしてユダヤ人たちはねたんだのか。パウロが語る主イエスの福音は、律法を守ることによるのではなく、ただ主イエス・キリストを信じるならば救われるというものであった。ユダヤ人達は自分達は律法を正直に守っているだから救われると信じたのである。人は誰でも、自分の誇りというものを持っている。神様はユダヤ人だけを愛しているのではない。律法を守ることによってではなく、主イエスを信じることによって救われるのだ。これでは、真面目なユダヤ人は立つ瀬がない。人の持つ誇りというものは、多くの場合、人と比べてどうだということでしかない。この人と比べて自分は良い人だ、大した者だというプライド、それは大変根深いものがある。だから、この時ユダヤ人は反対したのである。しかし、この主イエスの福音は、ユダヤ人という枠を超えているから、異邦人には大歓迎ということになったのだと思う。つまり、ユダヤ人も異邦人も、信じる人は信じたし、信じない人は信じなかったのである。主イエスの御前に、「自分は何もない。」という思いを持つ。そうでなければ、主イエスの福音を受け入れ、その救いに与り、新しくされることはない。そこには、ユダヤ人も異邦人も区別はない。  では、どうして主イエスの福音を受け入れる人と、これ受け入れずに反対し迫害する人が生まれるのか。これは何も、神様がこの人は信じる人、この人は信じない人と、始めから決めているということではない。律法を守ったから救われるというのであれば、私の努力、真面目さなどによって救われるということだが、主イエスの福音によって救われるというのは、自分の中には何もないのだから、何で救われたのか分からない。私は、この神様によって救いへと定められた者として自分を受け取り直して以来、自分が救われるかどうか、そんなことは少しも考えなくなった。こんな私でも救われるのだ。まことにありがたいことである。パウロたちは、この主イエスの福音を「勇敢に語」った。主イエスに救われた者は、自分の力を頼りとしない。主イエスの福音によって救われた者は、この自分を救ってくださった方の憐れみ、愛、そして力を信じるのである。しかし「信じるか」「律法を信じるか」このことは、この罪人の生きる地上においては、必ず起きることである。信仰ばかりでなく、全てのことにおいて二面性がある。皆が主イエスを信じるわけではないのである。なぜなら、この時主イエスの福音を告げたパウロも、元は主イエスの福音を迫害する側にいた人だからである。この分裂は必ず乗り超えられていく。この分裂は、主イエスの福音を勇敢に語ったが故に起きたものだが、この分裂が乗り超えられていく道もまた、主イエスの福音を大胆に語り続けることによってのみ与えられていくものなのである。主の御言葉は全ての人に与えられるのである。


2014年8月3日説教要旨ルカ9:37-43「暗い世にあっても」

主イエスは「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」と言われた。それは弟子達、私達に向けられた主イエスの言葉でもある。神様に対してまっすぐでない。主イエスは、それを非難し、嘆かれたのである。ただ、神様を信頼することではない。私達は主イエスの愛と恵みとを伝えなければならない。弟子達には、主イエスの力と権能、知恵が与えられていた。私達がその知恵を用いるのは、神様の御業のために自分を献げる為にある。ただ自分に都合の良い神様の業だけを求めるなら、不信仰な、よこしまな時代と言われざるを得ない。私達は主イエスの嘆きを知り、主イエスの私達への期待を覚えたい。主イエスの期待に応えるというのは、何か難しいことをすることではない。神様を全く信頼して、神様に対してまっすぐにあるということ、主イエスが私達に与えて下さっている賜物を献げ、主の御業にお仕えするということなのである。暗い世に私達は、神様のみ光を照らして行きたいものである。


2014年7月6日説教要旨使徒13:1-12「宣教の業に励もう」

バルナバとパウロを伝道の為に派遣したアンティオキアの教会とはどんな教会だったのか。この様に献身者を生み出す教会というのは、まことに神様に祝福され、神様の御用に用いられる教会だと思う。第二に、この教会はユダヤ人、異邦人等、多様な人々のいる教会であった。第三に、祈る教会であった。祈らない教会などというものはない。どの教会も一つとなって祈る。アンティオキアの教会は祈った。そして示されたのが、バルナバとサウロを伝道の為に遣わすということだった。キリストの教会は、この神様の救いの御業にお仕えし、用いられるために立てられた。パウロもバルナバも、神様によって選ばれ、立てられた。彼らはキプロスに出かけた。このキプロス伝道において出会ったのが魔術師だった。この魔術師は、パウロの言葉と共に目が見えなくなった。私は、この時の魔術師も、回心することを求められたのではないかと思う。私達が心に留めなければならないことは、このキプロス伝道は聖霊なる神さまによってなされたということである。伝道はその伝道者の有能さによって為されていくのではない。聖霊なる神様の御支配のもとに為されるのである。


2014年6月1日説教要旨ヨハネ17:1-19「喜びに満ちあふれて」

主イエスは十字架にお架かりになる直前に一体何を祈られたのか。それは弟子達、この使徒達が守られるように、父なる神様に祈られたのである。そこには主イエスが私達のために、私達の信仰がなくならないように祈ってくださっていることでもある。この主イエスの祈りを知った者は、この主イエスの祈りに声を合わせ、心を合わせるようにして祈るしかない。それは、私達に主イエスと同じ心を与えられているからだと思うのである。主イエスの弟子たちを聖めるのは御言葉である。主イエス・キリスト御自身であり、主イエスの御言葉であり、主イエスの十字架の御業である。主イエスによって遣わされた者として、主の御業にお仕えするために生きる者となるということである。私達は、主イエスによって救われた。神様のものとされた。主イエスは私達にこの無上の喜びに満ちあふれさせようと、私達を召し出してくださったのである。


2014年5月4日説教要旨ヨハネ10:7-18「一つの群れとなる」

主イエスこそ私達が神様の救いに与る門なのである。「門」の意味は、救いに与る為には、主イエスを信じる以外に道はないということである。このことが、次の主イエスが羊飼いであるということへと繋がっていく。神様の羊は、主イエス以外の者の言葉には従わないのである。私達は、主イエスの羊なのであって、それ以外の声に聞き従ってはならない。ここに、主イエスの羊の群れとしての教会が建っていくのである。主イエスは、「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と言われる。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言われる。この主イエスの御業に仕えるのが私達の為す伝道ということなのである。この羊を囲いの中へと導きたい。私達は主イエスの羊である。主イエスの救いに与る者である。だから、私達は一つの群れとなり主イエスの御声だけを聞き歩んで行きたい。



2014年4月6日説教要旨マルコ10:32-45「主イエスに従って歩み出す」

主イエスは自らの死と復活について、三度目の予告をした。しかし、この主イエスの思いを、弟子たちは受け止めることが出来なかった。この時弟子たちは、主イエスが何を言おうとされているのか、何を言っているのか分からなかったのである。このことは弟子たちの態度に良く表れている。自分が救われることを求めているのである。事実、この後弟子達は主イエスの十字架の死に直面し、主イエスを捨てて逃げてしまった。しかし、復活された主イエスに出会って、主イエスが救い主であるということを悟ったのである。復活の主イエスに出会って、初めて弟子達は主イエスが自分達に、何度も自らの死と復活を予告されていたことを思い起こしたのである。私たちも主イエスの十字架と復活にしか、自分の希望も、世界の希望もないことを知らされた者として、平和を求めて主イエスに従って歩んでいきたい。



2014年3月2日説教要旨マルコ4:35-41「向こう岸に渡ろう」

「向こう岸に渡ろう」とガリラヤ湖へ主イエスは弟子たちと共に舟で出かけた。突風で舟は水浸しになった。慌てる弟子たちに応え主イエスは風と荒波とを沈められた。ここで主イエスは、「まだ信じないのか」「あなたの信仰はどこにあるのだ」そう言われた。すでに安全な所に私たちを導いて下さって、主イエスは言われるのである。主イエスが乗り込んだ舟。それは沈まぬ舟なのである。「向こうへ渡ろう」と言われた通り、必ず向こう岸へ着くことになっているのである。共に居られる主イエスが乗り込まれた沈まぬ船。この教会が沈まぬ舟なのである。この沈まぬ舟に乗っている私達も又、決して沈むことも、おぼれることもないのである。「まだ信じないのか」と主は言われる。共に居られる主を信じつつ向こう岸を目指して、新しい年度も主イエスが乗り込んで下さったこの舟に乗って、精一杯舟をこいでいきたいと願うものである。



2014年2月2日説教要旨マルコ1:40-45「真の癒し、救いに与る」

重い皮膚病を患っている人が主イエスによって癒やされた。「その人は汚れている」とされ人々から避けられていた。だから町や村に入る前の所で、この人は主イエスの癒しを待っていた。主イエスは癒された。主イエスの御心、憐れみ、愛である。主イエスは、この思いを私達一人一人に向けておられる。この男の人の様に、自分が癒やされることを主イエスに求めないのなら、私達には何も起きない。ところで後に主イエスはこの男に、「口外しないよう」注意した。しかし、この男は町中に口外した。主イエスは公然と町に入ることができなくなった。人々は主イエスの目に見える癒やしのみを求めた。しかし、主イエスが来られたのはその為ためではない。主イエスが為すべき十字架の贖いへの道、救いの道、この男の人はそのことが分かっていない。我々はただ主イエスの十字架の贖いを信じる信仰だけで救われた。この主イエスの十字架のもとに集い、この十字架の主イエスをほめたたえつつ、日々歩んでいきたい。



2014年1月5日説教要旨ルカ2:39-52「神と人に愛されつつ」

少年時代の主イエスのことが記されている。主イエスがどのような少年であったのか、聖書の記述はすくない。「神と人とに愛された。」とある。これは、主イエスの成長というよりも、主イエスの育った環境状況を言っている。主イエスは、神の子だから、「神の恵みに包まれていた。」、この「神の恵みに包まれていた。」とは主イエスは「神と人とに愛されて育った」ということである。少年イエスが12歳の時、過ぎ越しの祭りの為に、一家はエルサレムに旅をした。神殿で少年イエスは律法学者達から教えを受けていた。ヨセフとマリアはその姿を発見した。心配した両親に、主イエスは「自分の父の家にいるのは当たり前」だと応えた。確かに、主イエスが、ただ「まことの人」であるだけならば、そうだろうと思う。しかし、この主イエスの答えの中には大きな秘密がある。ここに「まことの神の子」としての主イエスの言葉が示されているのである。主イエスは生まれた時からずっと、「まことの神」にして「まことの人」であったのである。「神と人に愛されて」成長されたのである。主イエス・キリストは「まことの神」であり、「まことの人」として、神と人に愛された。私達もこの年、主イエスに倣って、神と人に愛される信仰者としての道を歩んで参りたいと願うものである。



2013年12月1日説教要旨イザヤ51:4-11「喜びの歌をうたおう」

バビロン捕囚の中にあるイスラエルの民に、預言者イザヤは「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」(52:9)と呼びかける。私達が御子主イエスの御降誕を思うとき、そしてその主イエスがわたしたちの罪のために十字架にかかられたことを思うとき、この預言者の言葉は新たな響きをもって迫って来る。この御方により、神の慰めは現され、神の怒りは取り除かれた。主イエスの命によって、その流された血によってわたしたちは贖われ神のものとされた。「共に喜び歌え」神のご支配を喜びを持って待ち望む。神の国を待ち望む。この神のご支配について、わたしたちはもはやイスラエルの人たちのように手探りや想像は要らない。今もそして永久に主イエスは共にいて下さるのである。アドベントの時、思い悩む方々にこの喜びを伝えて生きたい。



2013年11月3日説教要旨創世記4:1-16「顔を上げて歩こう」

創世記4章カインとアベルの兄弟争いから御言葉に聞く。この事件の発端は、カインとアベルが神様に献げたものを、神様がアベルのものにしか目を留められなかったということである。カインは神様の方に顔を向けられない。弟のアベルに対する「嫉妬」である。特にカインが悪人だったという訳ではない。神様は顔を伏せたカインに向かって「顔を上げよ。」と言われる。「理不尽だ」そう言いたくなるような現実がある。そういう中で、神様は私達に向かって、「顔を上げよ」と言われるのである。この神様の前から離れないで、理不尽な現実の中で神様に訴え続けていく。それこそ神様が私達に求めていることなのである。これが聖書の信仰、祈り続けるのである。カインは神様に対して顔を伏せ、ついに弟アベルを殺してしまった。カインが顔を上げていれば、神様に向かって訴え続けていたのなら、決してこうはならなかったと思う。キリストの支配の中に生きる者とされた私達は、最早、罪の支配の中に生きる者ではなくなった。最早、神様に向かって顔を伏せることはない。私達は自らの中にあるカインの心と戦い、神様に向かって顔を上げ続けるのである。



2013年10月6日説教要旨ローマ13:1-10「上に立つ権威に従う」

パウロが語る「上に立つ権威」とは「国家権力」に限定されるわけではない。支配者の権威は神の権威の下にあり、神の権威と矛盾していてはならない。そして、権威者自身が「神に仕える者」であることを繰り返し述べている。パウロにとっては、神に仕えない権威者は、権威者ではない。主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。皇帝に従うことに先立って神に従うことの大切さを主イエスは語っている。国家権力、国家の権威とどのような姿勢で関わるのかということは、主イエス、パウロ、そして私達、いつの時代も課題として問われてくる。世界にある国家や法律の権威、権力は神の委託に正しく応えることにおいてこそ、本当の権威となるのである。国家の権威が神の委託に応えられているかどうかを見張る役割が、私達キリスト者、教会にはある。神の権威、神から委託されたこの大地の平和が汚されている。国家の権威が神の委託に応えられていないことは確かである。キリストの平和が世界に満たされるよう、日々宣教の業に励みつつ歩みたい。



2013年9月1日説教要旨「キリストによって一つになる」コリントⅠ1:10-17

コリントはエーゲ海の交易拠点として繁栄していた。文化的、宗教的にも多様性があった。その様な中で、コリント教会でも様々な考え方をする者達が生まれ、パウロに、アポロに、ケファに、キリストにつく、等と争い、分派活動が起こっていた。又、聖餐のあり方にも問題があった。勝手に食事をし、貧しい者が恥をかくようなことが起きた。「そうした争いが起こるぐらいであったら、みんな家で食事をしてきなさい」とパウロはいう。パウロは分派争いの基となるぐらいの洗礼ならいらない、また、キリストの十字架が空しいものになるのであったら言葉もいらない、と言っている。パウロはコリント教会の人々へ、「イエスのあり方十字架に学びなさい」と言っている。私達にとって唯一の道標は、「キリスト」である。キリストによって一つとされたい。



2013年8月4日説教要旨「主イエスを証しする共同体」使徒言行録20:17-38

私達は、主イエスの十字架の血潮により神様のものとされた。教会も、私達も、神様のものなのである。私達の人生の主人は、私達自身ではない。だから、私達の歩みも教会の歩みも、ただ神様のものであることを示すものでなければならない。教会には狼、悪魔がはびこる。それから教会を守るのが長老、役員の役目である。その人達の特徴は、私達を、主イエスに従わせるのではなく自分に従わせようとする。主イエスの福音に反する方に向けさせようとする。このような人たちから教会を守るのが、長老、役員達の務めなのである。主イエスを遣わしてくださった父なる神様の御支配、与えられる恵みの言葉の力と導きを、パウロは信じている。この「恵みの言葉」というのは聖書の言葉であり、それを説き明かす説教であり、主イエスの救いを告げる教えの言葉である。パウロはこの主イエスの言葉の中に、教会に仕える者のあるべき姿を見たのである。この教会を支配するのは父なる神様であり、主イエスの救いの恵みであり、神の言葉である。主イエスを証しする共同体でありたい。



2013年7月7日説教要旨「貴方は何者ですか」使徒19:13-20

パウロによって行われた奇跡の前提は、主イエスとパウロとの関係、結びつきにある。パウロは主イエスを愛し救われ、救いの御業のために選ばれ用いられた者である。この関係の中で、奇跡は起きている。この奇跡は、神様がパウロを用いているのであって、パウロが神様を利用しているのではない。魔術や呪術においては、神の力を利用しようとしているだけである。悪霊に問われて、ユダヤ人の祈祷師は、主イエスとの関わりを何も答えることが出来なかった。悪魔のささやきに対してルターは「主イエスの名によって洗礼を受けた者だ。」と言って悪魔を排除した。私達は、主イエスの名によって洗礼を受け、主イエスと一つに結ばれた者である。だから、私達はただ、「自分が何者であるか」、このことだけを忘れないでいれば良い。私達は、主イエスの名によって洗礼を受けた者、主イエスと一つに結び合わされた者、キリスト者なのである。主イエスの御名によって祈りつつ、主イエスの御名をほめたたえて、この一週も遣わされた場において、主の業に仕えてまいりたいと願うものである。



2013年6月2日説教要旨「いずれまた悔い改めます」使徒17:22-34

学問の町アテネで、パウロは伝道した。当時アテネには、「知られざる神に」という祭壇が多くあった。多神教の偶像礼拝が盛んであった。パウロはここで、この「知られざる神」こそが天地を造られた唯一の神であると語り始めた。パウロは悔い改めを求めた。この悔い改めなしに、私達が神の子となり、神様の救いに与るということは出来ない。パウロは主イエスの十字架と復活を語ったが、人は「いずれまた。」とあざ笑った。キリストの伝道は、日が浅い。「いずれまた悔い改めます」を聞くことなく、今、宣べ伝えて行くのである。



2013年5月5日説教要旨「主の祈り」マタイ6:1-15

「主の祈り」を祈る。それは、主イエスと、祈りにおいて一つとなることが出来るということである。神様に向かって、「父なる神様」といって祈ることで判ることである。キリスト者になるということは、この「主の祈り」を自分の祈りとして祈りながら、神様に与えられた人生を生きるということなのである。一般的な祈りの姿勢と、「主の祈り」によって導かれる私達の祈りとは、どう違うのか。「父よ」と呼ぶ者として祈りをささげるということである。神様に向かって「父よ」と呼ぶ者は、神様の子とされている。この神様と私達が、父と子の関係にある。この事実が私達の祈りの前提である。私達はその子として、心にあるがままを祈ったら良い。神様の子とされているからである。この主イエスによって与えられた「主の祈り」を祈りつつ、この祈りに導かれるようにして、新しい命の営み、主の御業に仕えて生きたいものである。



2013年4月7日説教要旨「主の復活を伝えられた者」マタイ28:1-10

主イエスの十字架の後の復活がなければ、この主イエスの十字架は忘れられ、キリスト教が生まれることはなかった。弟子達は明確に主イエスの十字架の意味を宣べ伝えていった。それは、弟子達が復活された主イエスに出会ったからである。愛する主イエスの死の悲しみの中にあった婦人達に向かって、復活された主イエスが「喜べ」と告げて、その御姿を現された。彼女達は復活された主イエスを神様として礼拝した。主イエスの弟子達は、この主イエスの復活の証人として立っていった。教会は主イエスが復活されたことを二千年前から証して来た。主イエスの復活を信じるということは、聖霊なる神によって起こされる出来事なのである。復活の主イエスが私達と共におり、私達を永遠の命、復活の命へと導いてくださっているからである。天使は、弟子達に主イエスの復活のことを伝えるように命じ、そして「確かに、あなたがたに伝えました。」と言った。主の復活を伝えられた者として、この喜びを伝えつつこの週も歩みたいと願う者である。



2013年3月3日説教要旨「天の国の鍵を授けられて」マタイ16:13-20

主イエスを、「神の子、メシヤ」と告白すること、これがキリスト者の条件である。それは神様がその人の心に働いて、主を告白させておられるのである。ペトロは「あなたはメシヤ、生ける神の子です」と答えた。それがこの信仰告白である。主イエスはこれに対して、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を立てる。」と言われた。だから、教会というのは、「イエスを神の子」と告白したものが、この世から呼び集められて構成されたものである。そしてこの教会の真の土台石である大岩(ペトラ)は、イエス・キリスト御自身なのである。主イエスはさらにペトロに、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」と言われた。この天の国の鍵も、ペトロという個人に授けられたものではない。ペトロが弟子たちを代表して告白したあの信仰、それを受け継ぎ、共に告白することで結び合っている教会に、この天の国の鍵は授けられたのである。教会はその鍵で、天の国の扉を開くのである。



2013年2月3日説教要旨「信仰に癒されて」マタイ15:21-31

カナンの女性が主イエスの救いを求めて来た。しかし主イエスは、この願いを三度にわたって拒絶した。これは私達には不可解に思える。願っても、祈っても、神様からは何の答えもない、ということを私達は体験する。彼女は、「主よ、ごもっともです。自分は主イエスの救いに当然あずかれるような者ではありません。」と答える。そのことをはっきりと知った上で、彼女は主イエスに救いを求めた。そこに、彼女と私たちとの大きな違いがある。私達は、救いに与ることは当然と思っていないか。しかし彼女は主イエスの救いは、権利としてではなく、恵みとして与えられることを知っていた。彼女は「その小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言うことができた。ユーモアがある。それができたのは、彼女が、自分は主イエスの救いに全くふさわしくない、それにあずかる何の権利もない者だ、ということを認めていたからである。「あなたの願いどおりになるように」と主イエスは言われた。そこには信仰による癒しがあった。信じてこの週も歩み始めたい。



2013年1月6日説教要旨「星に導かれた旅路」マタイ2:1-12

聖書を読み、改めて気づくのは、主イエスの誕生を知り、主イエスのもとに来て賛美した人、喜んで礼拝した人々は、決して多くはなく、また周縁に生きた人々であったという事実である。東方の占星術の学者達が救い主の誕生を星の出現を通して知り、はるばるエルサレムへと旅して来たという。本来ならばユダヤの民こそが真っ先に自分たちが待ち望んでいた救い主の誕生を知るべきであるのに、その彼らは知らず、むしろ彼らから見れば神の民でない異邦人達によって救い主の誕生を教えられる。東方の学者達はその星の出現を待ち続けていた。だからこそ彼らは礼拝することを求めた。救い主の星を待つ人、それは救いを待つ人である。彼らは星を見て喜び、救いの旅路を歩んだ。幼子を見て礼拝した。礼拝の本質、それは神の御子主イエスとの出会いの喜びである。彼らは自分の国へ帰って行った。それは彼らの悔い改めの姿とも言える。むしろ主の臨在の下への立ち返りの道である。私達は主の日にここで礼拝をし、各々のところに帰って行く。主イエスと出会った人は新しくされ、変革され、新しい道を生きていく。そこから新しい道、主の道を生きる人生が始まる。礼拝とは、私達が新しくされる場である。今年も星に導かれた旅路、礼拝から礼拝への旅路へと歩み出して生きたい。



2012年12月2日説教要旨「目を覚まして」マタイ24:36-44

主イエスは「目を覚ましていなさい」と言っておられる。「目を覚ましている」とは、この忠実で賢い僕のようであり、逆に「眠り込んでいる」とはこの悪い僕のようであることである。 この忠実な僕と悪い僕の違いは何か。主イエスの再臨を信じるか否かである。すなわち主イエスのこの世界に対するご支配を信じることである。つまり神様のご支配の完成こそがこの世の終わりであると信じることである。そこに、忠実な僕と悪い僕の違いがある。悪い僕は神様のご支配と恵みを信じることなく、主イエスに希望を置いていない者のことである。目を覚まして、私達は、主イエスのように、人々に仕える者として、このアドベントの時を歩み始めたい。



2012年11月4日説教要旨「内側をきれいにせよ」ルカ11:37-54

主イエスの態度の中に、愛というものが本来持っている激しさ、厳しさというものが現れている。この様に私達が愛に生き、真理に生きようとする時、私達は我が身を切るという覚悟が必要と思う。大切なことは、「神の御前で」ということなのである。自分達が正しくあろうとする真実。しかし、そのことと他者への愛が分裂してはならない。この二つは私達の中でしばしば分裂する。しかし、「神の御前に生きる」ことである。それは真実に神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えることである。それ以外の為ではない。それには、神の御前で、神の言葉として、聖書に向き合い、御言葉に聞くことである。キリスト者らしく生きたいといつも思っていても、早々キリスト者らしくなるはずもない。しかし、その人がその時その時に、キリスト者らしく生きるということはある。神の言葉により内側をきれいにして頂くのである。こうして「神の御前で生きている」ということを心に刻みたいものである。



2012年10月7日説教要旨「ラザロの死」ヨハネ11:1-16

ラザロの死において主イエスは、「死で終わるものではない」と告げられた。ラザロは死ぬ。しかし、死で終わらない。何故なら、主イエスが復活させられるからである。主イエスに愛された者は、死では終わらない命に生きているということである。私達のこの肉体の死は、主イエスから見れば、眠っているのと同じである。何故なら、主イエスは死んだ者を復活させることがお出来になるからである。私達が主イエスを信じ、愛するということは、このラザロが肉体の死の後に主イエスによって復活させられたように、私達もまた、主イエスによって復活させられる道が与えられているということなのである。ラザロは、肉体の死では終わらなかったように、私達のその時も主イエスが必ず起こしてくださるのである。今日もラザロの死を通し「起きよ」と主イエスは私達に語りかけて下さっている。私達は聖餐に与ることにより、ラザロ以上に主イエスと一つであり、その愛の交わりに生かされている。その恵みを多くの人々に宣べ伝えて行きたい。



2012年9月2日説教要旨「主イエスは我が光」ヨハネ8:12-20

主イエスは世の光であり、主イエスに従う者は暗闇の中を歩かないと言われる。主イエスに従う者は、罪の中を歩かず、自分がどこから来てどこへ行く者であるかを知り、まことの希望の中を生きるということなのである。主イエスに従うならば、私達は、罪という闇から引き揚げられ、光の中を生きる者となる。主イエスが世の光であるというのは、私達を、約束の地、神の国へと導いてくださる方であるということである。主イエスに倣って生きる者になるということである。辛い、悲しい、出来事に遭っても、主イエスの光が私達から奪われることはない。「主イエスは我が光」として歩み出したい。



2012年8月5日説教要旨「命のパン」ヨハネ6:41-59

主イエスが「わたしは天から降って来たパンである。」と言われると、人々はつぶやき始めた。この時、人々は、二つの点で主イエスの言葉につまずいた。第一に「天から降って来た」ということ、第二に「パンである」ということである。主イエスを信じられない理由は、主イエスが語られた事柄が、霊の命、永遠の命、を指し示していたが、人々の常識の範囲のことではなかった。このつぶやきは、主イエスを信じる前の私達のつぶやきでもある。聖霊なる神様が不信仰な私達を、信じる者にしてくださったのである。第二のつぶやきだが、主イエスは御自身のことを「命のパン」と言われた。主イエスは、我々の肉体の命を保つためのパンと言われたのではなく、永遠の命を得るためのパンだと言われたのである。この命のパンは、神の国までの信仰の旅の間中、私達を養い続ける霊の食物なのである。記者ヨハネは、この主イエスの命のパンの言葉に、聖餐の意味と意義を重ねている。私達が聖餐に与る時、キリスト御自身が私達の中に入ってくださる。だから安心して日々歩んでいきたい。



2012年7月1日説教要旨「収穫の業」ヨハネ4:27-42

サマリヤの女性は罪汚れていた。主イエスというお方との出会いは、彼女を明るくした。そして、この変化こそ、町の人々を驚かせ、主イエスのもとへと人々を導いたのである。彼女は主イエスから直接話を聞き信じた。私達は友人であれ、家族であれ、主イエスを信じ、救われている人の言葉を聞いて信じ教会に行く。しかし、そこから「主イエスに聞く」ということが起きなければならない。自分自身で本当に主イエスの言葉に出会う、そして主イエスの十字架が自分の為であることが本当に分かり、信じることにならなければならない。人々を主イエスのもとに連れて来る。これは収穫の業であり、それ故、このサマリアの女性は喜んでこの業を為したのである。主イエスが救い主であることを明かしつつ、救いの業を為して生きたい。



2012年6月3日説教要旨「私は道、真理、命である」ヨハネ14:1-18

 主イエスは神の独り子であり、まことの神である。主イエスと父なる神様は一つであり、主イエスの中に父なる神様が、父なる神様の中に主イエスがおられる。この主イエスがまことの神であられることを、信じることは、偶像礼拝ではない。主イエスは「私は道であり真理であり命である」と言われる。この道は、主イエスの十字架という犠牲によって造られたものである。しかし、主イエスが誰であるのか弟子達も私達も分からない。それを神様に問うことである。それが主イエスとの交わりなのである。トマスもフィリポも「分からない」と質問を繰り返した。しかし、主イエスがまことの神であられることがよく分かる前から、既に主イエスとの交わりの中に生きていた。私達もそうなのではないか。私達は主イエスを神の子と信じ、この主イエスの十字架の恵みの中を生かされている。主イエスは「わたしが道だ。」と言われる。この道を行くということは、主イエスを信じ、主イエスと共に生きるということである。共に生きるのみで、私達は父なる神様の御許に行けるのである。だから、この道は命の道なのである。この道は真理の道なのである。私達が主イエスを信じ、主イエスと共に生きるなら、この道で良いのかどうか迷い悩んだとしても、その道は神の国への道となるということなのである。信じて歩みたい。



2012年5月6日説教要旨「証をする者」ヨハネ15:18-27

 主イエスの弟子達は、ユダヤ教主義者から迫害を受けた。ヨハネはその勢力を「世」と呼ぶ。世に属するとは、ユダヤ教会の中に留まることである。弟子達は今やキリストの教会に所属する者となった、だからユダヤ教指導者たちは、あなた方を憎むのだとヨハネは言う。ヨハネの教会では多くの人がイエスを信じたが、教会がユダヤ教正統派から異端宣告を受けると、多くの者が脱落していった。今日の日本社会においても、多くのキリスト者が脱落している。色々な価値観が生まれて来た昨今、教会から離れていく。ヨハネ教会の置かれた状況は、私たちの教会が置かれた状況でもある。しかし、主イエスは私達を励まされる。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この励ましの声を受けて、私たちはこの世を生き、この世に仕えて生きたい。キリストを証しする者でありたい。



2012年4月1日説教要旨「エルサレム入城」ヨハネ12:12-19

 主イエスが復活される一週間前、主イエスがエルサレム入城の時の出来事が記されている。この時人々は口々に、マカベアを迎えた様に棕櫚の葉を振りながら「ホサナ」と叫び、「イスラエルの王」として主イエスを迎えた。この時主イエスを歓迎した群衆も弟子たちも、主イエスが子ろばに乗られている意味は分からなかった。人々は主イエスを王に担ごうとしていた。しかし、主イエスは御自身の十字架の死と復活を見ておられた。ろばに乗って、平和の君として入城されたのである。主イエス御自身が御自分でこの道を選ばれて、自ら敢然とエルサレムに入られたのである。私達は十字架の愛にいかに応えるべきか。この身の全てを捧げつつ歩んで生きたいものである。



2012年3月4日説教要旨「神の業が現れるために」ヨハネ9:1-12

 主イエスは、目の不自由な人について、「神の業がこの人に現れるためである」と言われた。シロアムの池で、その人は見えるようになった。弟子たちはその苦難の原因と責任を問うた。新しくされた。この人は、いやされた後、人々の中に戻って行ったが、人々は傍観者的であった。そんな中にあって、この目の見えなかった人は、はっきりと「わたしがそうなのです」(9節)(主イエスにより癒された)と答えた。主イエスにより癒されたという言葉は、この人も、そのようにして責任をもって主イエスに続く者とされたということなのである。主イエスによって目を開かれたものは、主イエスと共に、お遣わしになった方の業をなすものとされるのである。主イエスと出会い、主イエスによって目を開かれて、この方の下から世に遣わされていくのである。



2012年2月5日説教要旨「私はある」ヨハネ8:21-38

 主イエスの救いへの道とは、主イエスが「わたしはある」というお方であるということである。ヨハネ福音書では「私は命のパンである」等々、この「わたしはまる○○である」という箇所が多々ある。「わたしはある」という神宣言と考えられる。「わたしはある」これは出エジプト記3章14節「神はモーセに、『わたしはある。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」に由来する。主イエスは、「わたしはある」と自ら告げることによって、「わたしはあのモーセが出合った神と一つであり、わたしは神と共にずっとあり続ける者であり、あなたがたとずっと共にある者なのだ。」と宣言されたのである。その中に、大きな励ましと慰めがある。私達は聖餐に与る。パンと杯と共に、主イエスは確かにいてくださるのである。このことを信じるなら、この方に助けを求め、この方の前に額ずくなら、私達は罪のうちに死ぬことはない。私達が主イエスをほめたたえることが出来るということは、私達が主イエスを「わたしはある」という方として受け入れている、信じているからであり、それはすでに主イエスの救いの中に入れられていることなのである。この週も「わたしはある」と言われる主イエスを信じて、歩み始めたい。



2012年1月1日説教要旨「言は肉となって」ヨハネ1:14-18

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。これがこの朝、私たちに与えられた新年の御言葉である。この「言」とは、天地創造以来、天にあって神と共にあった「お方」である。その「言葉なる神」が、今、私達と同じ肉体を取って、人間となって私達の世界に来られたということなのである。主イエスの御降誕である。私達の常識からすれば、神と人間は違う。神と人間を混同するのは、神を冒涜することに他ならない。神と人間は別物である。神様は恵みに満ちあふれたお方であるから、それが私達にまであふれ出てきた。その神様の決意とは、愛と関係のある決意であった。その神様の愛について、最もよく記していると思われるのは旧約聖書のホセア書11章1~9節である。私はここに、何かしら神様の大きな決意を感じる。「わたしは神であって、人間ではない。怒りをもって望みはしない」(9節b)神様は、「わたしは神であり、人間ではない」と宣言された。そして人間に近づいてくるのである。愛がけた違いに大きいがゆえに、「わたしは神であって、人間ではない」と言われた神が、その愛ゆえに、こともあろうに逆に人間になってしまった。人間が神になることはできないが、全能の神であれば、私達の想像を越えたことだが、人間になることだってできる。それがイエス・キリストである。そのお方は、神様のしるしである。この一年も信じて神の御前を歩いていきたい。



2011年12月4日説教要旨「神からの誉れを受ける」ヨハネ5:41-47

 主イエスの栄光、それは人から受けるものではなく、神様から受けるものであった。主イエスがもし、人からの誉れを求めたのならば、決して十字架にお架かりになることはなかった。私達が本当の栄光を求めるならば、それはこの主イエスの十字架と結ばれるということであることを知りたい。神様が私達に与えてくださる栄光は、神の子としての栄光である。それは、この世の栄光ではない。主イエスは、ユダヤ人達に「神への愛はない」と明言する。それは、神の御心を現した神の言葉である主イエスを受け入れなかったからである。貴方達は神様からの誉れを求めず、人からの誉れを求めているだけだ。そう主イエスは言われたのである。律法を守ることが、神様からの誉れを求めるのではなく、「あ の人は立派な人、信仰深い人だ」と言われることを求める、そんな風に変質してしまっている。主イエスはそのことを指摘されたのである。神様から栄光を受けるということは、主イエスの十字架への歩みについて行くということなのである。私達はただ神様からの誉れを求めて歩んで生きたい。



2011年11月6日主日礼拝説教要旨「天の故郷への旅」ヘブライ11:8-16

今朝は、召天者記念礼拝である。毎年、この召天者記念礼拝を迎える度毎に、私達は改めて、目に見えない交わりの中にあるということを知らされる。聖書に記された預言者や王、使徒達、私達の愛する、先に天に召された方々も、天の国の壮大な群の中に神の救いの中にいる。この地上の歩みの中で、私達は完全に罪を犯すことがない者となるということは、あり得ない。神の民のこの地上での歩みは、皆、この天にある完全な救い、救いの完成を求めての旅である。全ての神の民の生涯は、この天の故郷を目指しての旅なのである。この地上にあって、私達は皆文字通りの旅人として生きるわけではない。各々の生活の場で天の故郷を目指して励む、旅を続けている。地上における私達は、悩みがある。悲しみがあり、不安がある。しかし、私達には天の故郷がある。そこを目指す旅であるから、その旅は明るい、希望に満ちた旅なのである。まさに、このことが大切である。私達自身の中にも罪がある。天の故郷を目指す者になったからと言って、罪が無くなるわけではない。私達は、これに反論出来ない所がある。しかし、それでもなお、私達は天の故郷を知らない者のように生きることは出来ない。確かに、私達には欠けがある。しかし、主が共にいて下さること、ここに、私達の平安が、安心がある。天の故郷を目指して歩み続けたい。



2011年10月2日説教要旨「父の喜び」ルカ15:11-32

今日の聖書箇所に出て来る父親は神様のことであり、放蕩息子とは私達のことである。このたとえ話を読むと、誰の歩みであってもこの放蕩息子の話と重なることを覚える。何故この父親は、弟息子に財産を分けてしまったのか。それは、父なる神様の「自由な愛」を示している。私達人間に対して、神様はあり余る富を、能力を与えられた。自分の力で、神様なしでやっていける。自分の力で何とか出来ると思っている限り、神様など求めない。それが私達なのである。しかし、人生には行き詰まることがある。その時、神様のもとに立ち帰るしかない。放蕩息子が父の下に帰った。ここに、父なる神様の、私達に対しての思いが良く言い表されている。この罪人を捜し求める神様が、人間となって、御子イエス・キリストとなって来られた。罪人を捜し求める父なる神様の御心を自分の心とするならば、新たな思いを持って、神様の御言葉、福音を宣べ伝えていくしかない。私達には、悔い改め、神様の子とされた喜びがある。しかし、その喜びとは比べものにならない程の大きな喜びを、父なる神様ご自身が味わわれた。その喜びを覚えてこの週も歩み始めたい。



2011年9月4日説教要旨 ヤコブ1:19-27「御言葉を行なう人になりなさい」

キリストを信じたときから、神の言葉が、わたしたち一人一人の心に植え付けられた。22節から25節の段落を見ると、「御言葉を行う人」と「御言葉を聞くだけで行わない者」が並べられ、読者が、御言葉を行う人になるように命じている。神の言葉を聞いても行わない人は、自分の顔を鏡に映し整えなければと思っても、忘れてしまう人に似ている。では、御言葉からしっかり聞いた人はどうするか。23節と24節に「眺める」という言葉が、御言葉を聞いても行わない人との関係で2回出ている。すなわち、御言葉を聞いても行わない人は、自分の顔を鏡に映して単純に見るだけ、ぱっと、ちょっと見るだけの人であるという意味で使われている。御言葉を聞いても行わない人の場合は「眺める」という言葉が使われ、御言葉を聞いて行う人の場合は、「一心に見つめ」という言葉が使われて、区別されている。すなわち、御言葉への姿勢が違うことを教えている。御言葉を聞いても行わない人は、御言葉という鏡を見るが、ちょっとだけ見る、一瞥する姿勢になる。そのため、御言葉という鏡に映った自分の不十分さを知るが、しかし、すぐに忘れて、御言葉で教えられたことを行うことは出来ない。でも、御言葉を聞いて行う人は、御言葉という鏡を身をかがめてのぞき込むようにして注意深く見るのである。そして、御言葉という鏡に映った自分の不十分さをよく知り、忘れることなく、御言葉で教えられたとおり行う。神の言葉は、人間の真の姿を映し出す鏡である。私達は、神様の御声、御言葉を聞くことが大事である。御言葉を一心に聞いて、自分を見つめ、行なうことである。御言葉に聞き行ないつつ歩み始めたい。



2011年8月7日説教要旨フィリピ4:1-9「主は共におられる」

フィリピの教会で二人の夫人の間に溝があったようである。「主において同じ思いを抱きなさい。」パウロは、この二人に和解の道を示した。「主において」。その点においては食い違ったことはなかった。教会の一致、主において同じ思いを抱くとは、そういうことなのである。この二人が互いに「主において同じ思い」となる為には、二人を支える人が必要だった。主イエスの十字架の贖い、恵の福音。この「とりなし」である。そこで初めて、私達は「主にあって、同じ思いを抱く」ことが出来るのである。主は私達の全てをご存知である。私達の小さな頭の中では、もうどうにもならないと思ったとしても、主においては、すでに解決されている。だからパウロは、「主において喜びなさい。」という。あなたには、この主が備えて下さっている明日がある。この恵みの現実に目を向けなければならないと思う。私達は主が共におられることを思い起こしたいと思う。この主の恵みを覚え、御言葉に聞き、霊的に養われて、互いに同じ思いを持ち、常に喜びつつ、感謝しつつこの一週も又、主と共に歩んでまいりたいと願うものである。



2011年7月3日説教要旨

ペトロは「美しい門」で足の不自由な男の人を癒した。ペトロは集まってきた人々に向かって、「あなたがたが十字架にかけて殺したイエスは、死人の中から復活したまことの救い主、メシアである」と説教したところ、五千人がこのペトロの説教を聞いて信じた。ところが、ペトロとヨハネはサドカイ派、大祭司らの議会に立たされ尋問された。大祭司たちに権威はあったが神の権威には及ばない。尋問の時「癒された男の人」は何も語らないが、その存在が、大祭司や律法学者たちに反論させなかった。この事実こそ、主イエス・キリストが誰であるかを最も雄弁に物語っていたからである。元来ペトロは、この様な場で堂々と大胆に主イエスを語ることが出来る者ではなかった。しかし、そうではなかった。聖霊なる神様が、この時ペトロとヨハネの内に宿り給うて、言葉を与え、語らせ続けたのである。神の前に立つ者として歩みたい。



2011年6月5日説教要旨
「宣べ伝えよ」ルカ24:44-53

主イエスは弟子達を祝福しながら彼らを離れ、「天に上げられた」。そのことは弟子たちを神へと向かわせた。彼らは神を礼拝し、神を誉めたたえていた。 キリストが天に上げられるということは、弟子たちにとって、「遠くへ行ってしまう」という出来事ではなかった。そのように私達もキリストが天に上げられたことにより、天と結び合わされている共同体なのである。それゆえに私達は天に向かって顔を上げて生きていくのである。何よりも喜ばしいのは、教会の頭であるキリストは、私たちの罪を贖う為に十字架に架かって下さったことである。私達を愛し、御自身を献げてくださった方が天におられる。だからこそ、私達は安心して天を仰ぐことができる。だからこそ私達はキリストを宣べ伝えなくてはならない。「罪の赦しを得させる悔い改め」が宣べ伝えられなくてはならない。私達は地上にいる間に地上にいる人に、伝えるべきことを伝えなくてはならない。主イエスが天に上げられた後に、今度はその天からの力に弟子たちが覆われる。天に上げられたキリストが聖霊を地上に注いでくださる。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によって人々に宣べ伝えられる」。それは私達に与えられた務めである



2011年5月8日主日礼拝説教要旨
「疑いを起こすな」ルカ24:36-43

弟子達は、復活の主イエスと出会ったという報告を聞いていた。しかし、実際に復活の主イエスに出会うと幽霊だと思ってしまう。復活を疑い信じない。しかし、主イエスの復活は私達の命の根本が変えられることになる出来事である。主イエスはその信じない者も信じる者にしてくださる。この主イエスの働きかけによって信じる者とされたのが私達である。ここで主イエスは「わたしの手や足を見なさい。」と言われている。その姿、主イエスと共に旅をしていた弟子達は、この魚を食べる主イエスの姿によって、あの一緒に旅をした主イエスと、目の前にいる復活の主イエスが結びついた。愛する主イエスが復活されて目の前にいる。その意味でも、主イエスの復活の出来事は、まさに私達の復活の先取り、初穂なのである。弟子達は、復活の主イエスに出会い、信じられない程の大きな喜びを知った。彼らは主イエスの証人として遣わされる為に、復活の主イエスとの出会いを与えられたのである。主イエスの召命というものに生きることを志そうとしない信仰は、使徒以来私達が受け継いできた信仰ではない。疑うことなく主イエスの証人として歩みたい。



2011年5月1日主日礼拝説教要旨
「復活のキリストに目を開けよ」ルカ24:13―35

主イエスの復活の出来事により、キリスト教の歴史は始まり、世界は変わった。この出来事は、主イエスがまことに神の子であられること、神そのものであることを示した。今日の聖書は主イエスが復活された日、二人の弟子に復活の主が現れた出来事が記されている。エマオへの途上で、二人の弟子が復活の主イエスと出会った。ところが、この時二人は、「主イエスだとは分からなかった」。しかし、この二人と共に、主イエスはすでに一緒に歩いて下さっていた。このことに私達は注目したい。彼らは肉体の目で主イエスを見たことがあった。復活の主イエスは、私達が主の復活を受け入れ、信じられるようになってから、共に歩んで下さるのではない。常に共にいる。主イエスはこの「物分かりが悪く、心が鈍い者」のために、御言葉を与え、信じる者へと導いてくださるのである。それは私達も同じである。この日、二人の弟子は復活の主イエスと共に食事をした。パンが裂かれた時、二人の「目」が開けた。もちろん、この「目」とは肉体の目ではない。霊の目である。共に食事をしているのが主イエスだと分かると、主イエスの姿は見えなくなった。しかし、聖霊として、復活の主イエスの霊が、私達と共におられ、私達に御言葉を与え、私達を導いて下さっている。「復活の主イエス」にしっかりと目を開けたい。



2011年3月27日主日礼拝説教要旨

主イエスは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われる。「自分の十字架」というと、背負って生くべき重荷、苦難、運命と解釈することができる。主イエスが語った「自分の十字架」とは、まさに主イエス自身が担いだ十字架である。その十字架とは、自分以外の他者の罪咎である。「自分の十字架」とは自分にまつわるものではない。主イエスが「自分の十字架」と言っているのは、自分以外の他人のものである。自分ではない他の人が、人生において背負っている重荷や苦難や運命を指して「自分の十字架」と言っている訳である。自分の十字架を背負うとは、「献げる」という行為につながる。主イエスを救い主として告白する者は、この自分の十字架を背負い、自分を捨てて、主イエスに従うという中で、最早、自分の利益の為に、それだけの為に生きるということが出来ない者とされてしまうということなのである。主イエスをキリストと告白し、この主イエスに従って歩もうとした時に生まれてくる、新しい生き方である。これが、十字架にかかった主イエスに従って生きる者の新しい生き方なのである。何故なら、主イエス・キリストご自身が、私達の罪の赦しの為、私達の永遠の命の為に、十字架の上でご自分の命を献げて下さったからである。主イエス・キリストが十字架において私達に新しく拓いて下さった道、それが「献身」という歩みなのである。主イエスの十字架は、十字架では終わらない。主イエスの十字架は、この復活の光に照らし出された十字架である。永遠の命に繋がっている。主イエスが私達の為になして下さったあの十字架の業を覚えて、日々、自分の十字架を背負い、神と人とを愛し、神と人とに仕える歩みをなしてまいりたいと願うものである。

inserted by FC2 system